2月9日の日本語教室の報告です。
この日はボランティアの方がたくさん参加してくださいました。
ボランティアとして参加した大学生の方から感想をいただきましたので紹介します。
【日本語学習について】
今回、ボランティアとして在日クルド人向け日本語教室に参加してみて、日本語そのものの難しさを改めて実感した。現在、大学で日本語教育課程を取っているが、自身が日本語母語話者であるため、学習者がつまずくポイントをつい見落としがちだ。
しかし、今回教室を訪れる学習者の方と一緒に勉強していると、「何でこの漢字には意味が3つもあるの?!」とか「『二〇十九』と『二千十九』はどう書き分けるんだろう?」など、自分でも考えたことがなかった日本語への疑問が次々と湧いてきて、改めて日本語の複雑さに気付いた。
さらに、彼らが迫害から逃れるために、遠く離れた日本を選んでくれた以上、彼らの日本での暮らしが少しでも快適になるように日本語学習をサポートするのは、受け入れ側である私たちの非常に重要な役割だと痛感した。
【在日クルド人について】
今回参加してみて、大学の授業で聞いた話が本当に身近な場所で起きている、という実感を強く持つことができた。教室を訪れる在日クルド人の方々と一対一で話してみると、彼らの生い立ちや家族、仕事、日本に来た理由などを教えてくれた。それを聞いて、生まれた場所がたまたまクルディスタンの地域だっただけなのに、恣意的な迫害や弾圧が原因で、自ら住む場所を移動したり、家族と離れて暮らしたりしなければならない状況に、何とも言えないやるせなさを覚えた。
さらに、逃れた先でも尚、差別や偏見、ヘイトを受けるかもしれないという恐怖は、紛争に関して比較的縁の少ない日本で生まれ育った私たちにとっては、想像を絶するものだと感じた。実際に、職員の方から教室に届いたヘイトのメールを見て、「こんなことを書く人が本当にいるんだ…」と思わず絶句してしまった。
【異文化理解について】
今回の参加を通じて、「『異文化理解』や『多文化共生』とは一体何なのだろう」という長年の疑問に対して、自分なりの答えが少し導き出せたように感じた。これまで私は、「異文化理解」とは、自分とは異なる価値観を「受け入れる」ことだと思っており、そのためには自分が完全にその価値観に「納得する」必要がある、と考えていた。
しかし、社会で次々と起こる複雑な問題を知るうちに、「異文化理解ってただの理想論?」と心のどこかで思ったり、自分自身も海外の文化を知るうちにどうしても納得できない部分が出てきたりして、こうした分野を学ぶ意義も見出せなくなっていた。
しかし、今回参加してみて、「異文化理解」とは、自分の価値観と他者の価値観を完全に一致させることではない、という大きな気付きを得た。考え方や価値観が異なることを大前提に、100%理解・共感できなくてもいいから、とにかくその存在を「認知する」こと、そしてその違いを「否定しない」ことが、何よりも重要なのだと感じた。人は、自分に馴染みがない価値観を向けられると「違和感」を覚える。その「違和感」をヘイトや差別として急進的に表現するのではなく、良い意味で「割り切る」ことが、単なる理想としての「異文化理解」ではなく、現実的・本質的な「異文化理解」につながるのではないか。
これは逆も然りで、私たちが当たり前だと思っている価値観や文化も、相手にとっては「違和感」を覚えるものかもしれない。このように、異なる価値観をもつ私たちの人間関係は「お互い様」の構造の上で成り立っているため、これからはあらゆる文化を必死に「受け入れ」ようとするよりも、「認知する」ことに焦点を当てながら異文化理解を深めていきたい。
津田塾大学S.S

