9月1日の日本語教室の報告です。
学校の夏休みが終わり、新学期が始まりました。
教室に通っていた小学生が日本語能力試験のN3に合格しました。
次回の試験に向けて申込希望者も増えています。
ボランティアを希望する人も増えています。
ボランティアの方から感想をいただきましたので紹介します。
ここまでのところボランティアとして三度参加した。もともと外国人に日本語を教えることに興味を持っていたせいか、毎回なにがしかの発見がある。そのうちのひとつをご紹介したい。
ある若者に日本語を教えていると、その男性がおもむろに、紙にライターの絵を書いた。それから私に向かって、「あなたにあいたい」とこの絵(の示すもの)は同じか違うかと尋ねた。「ライター」と「あいたい」。なるほど、音の感じは似ているが、意味はまるで違う。「会いたい」の意味はなんとなくわかっているようだったので、私は彼の方にぐっと人差し指を突き出しながら、「会いたい」は人に向かうのだという身振りを示した。それに対して、絵のほうの意味は(指で挟むしぐさをしながら)タバコですよと、ともかく違いが分かるようにした。
若者の、この二つの意味に関する学び方は、ひょっとすると混乱し効率が悪く映るかもしれない。しかしこれを「耳から学ぶ人の発想」ととらえたらどうだろうか。ひらがなとカタカナ、こちらは名詞であちらは動詞という、つまり学校式の学び方ではなく、ともかく耳に入ってくるものを生活の中でつかまえては関連付けるような学び方と言えるだろう。
さて、私たちが外国人に日本語を教えようとするときの教え方は、この若者の「耳からの学び方」に対応しているだろうか(対応しているとは言い難いのではと想像します)。もし両者の間にずれがあり、なおかつ、彼がそのずれを苦痛に感じるとしたら、日本語の学習はつらくなるかもしれない。
相手に合わせて教えるというのは、口で言うと立派そうに聞こえるが、実際のところはどうしてよいかわからない。実際、「会いたい」と「ライター」に相当する組み合わせを考えてみようとしても、少なくとも私は何も思いつかないのである。どこかの教材会社がこの文章を見て、新たに開発してくれないだろうか。
都内私立大学 助教A.I