本日、9月17日、日本語教室を開催しました。
今日もたくさんの学習者とボランティアが一緒に学びました。
ボランティアに参加した大学院生の感想を紹介します。
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変化すること。
今日の日本語教室に参加して、私の中に去来した言葉でした。
前半の日本語教室では、日本語能力試験のN4に挑戦する皆さんと練習問題に取り組みました。
実は前回、今日と似たような問題をやった際は、いずれもなかなかの好成績。
なので、今回も上手くいくかと思ったら、思うような点数が出ず、悔しい結果に。
たしかに、日頃しっかりと勉強しているにもかかわらず、結果が振るわなかったときほど、つらいことはありません。
でも、この悔しさをバネにして、がんばることができるなら、この結果は無駄なことではないはずです。
この結果をチャンスと捉えて、次回もがんばってほしいと思いました。
ファイト!
後半の日本語教室では、日本語能力試験は特に受ける予定はなく、自主的に勉強しに来ている方と、日常会話に重きを置いた勉強をしました。
自分ごととして、最近悩むことは、相手の心にストンと落ちてくれるような明朗な説明ができないこと。
今日も図解化したり、翻訳ツールを使ったりと、あの手この手で説明をしてみたものの、まだストンと腑に落ちてくれない様子。
すこし雑談を設けて、そもそもトルコ語自体でいま教えている日本語は何て言うのかを色々と教えてもらい、その教えてもらったトルコ語を使って、さっきシコリとして残っていた問題を説明してみると、不思議とストンとまではいかないまでも、ある程度納得してもらったような顔で少しホッとしました。
でも、その後は、日本語の授業もそこそこに、自分が文学を研究していることもあって、トルコでの有名な文学を教えてもらったりと、トルコ語を教えてもらったあとの方が、最初のときよりも距離がぐっと近づいた気がしました。
いま、今日自分の目に映ったふたつの出来事を記しました。
冒頭に「変化すること」と書きましたが、前者は日本語を必ずしも第一言語としない皆さんが日本語を習得する様子を、後者は日本語を第一言語とする自分がトルコ語という別の言語の知識を得ることで、ふたりの距離がぐっと近づいた様子を、変化すると形容してみました。
こんにちの難民問題をめぐる言説を目にすると、日本人以外の人びとに対して、ある種「日本(人)化」とも呼ぶべき変化を求める場面がありますが、それで果たして共生が果たされるのか、いつも考えてしまいます。
むしろ、今日自分事として起こった、〈共に変化する〉ようなときにこそ、共生と呼ぶべき何かがようやくつかまえられるような気がしました。
この日本語教室では、日本語を学習する方の変化を日々目にしますが、同時に自分自身もまた変化することが求められていると感じました。
青山学院大学大学院
S.N
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次回は9月24日です。